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病気にもいろいろあるけれど

職業柄、いろいろな人に出会う。
先日、ちょっとした衝撃的な場面に出くわしたのだが、その場面を演出した人が緊急入院した、という知らせを受け取った。

その人と初めて会ったとき、言動があまりに狂気にみちたものだったので、「ちょっと普通じゃないな」と思った。
「普通じゃない」という言葉は語弊があるかもしれないが、いわゆる「心の病気」なのかな、と思った。聞くところによると、ずーっと投薬治療をしていたようで、一時期は大変おとなしくなり、魂を抜かれたかのごとく、うつろな目をしていた。

ところが、最近どうも「ハイ」の状態になっていたようだ。
先日は、関係者以外立ち入り禁止の場所にどかどかと入りこみ、ありとあらゆる暴言を吐き、悪態の限りをついていた。世の中のすべて、そしてそこにいた人達に向って。
お酒の匂いがぷんぷんしていた。

その人は、なぜだか私の服装に興味を持ち、その洋服はどこで買ったとか、その指輪はどこで買った、いくらした、誰に買ってもらったのか、その時計は○○円くらいか、などと聞いてきた。それは狂気をおびているもので、普通の聞き方ではない。
こういうとき、まともにとりあってもらちがあかない、と思ったので、無視した。すると、私の胸ぐらをつかんで「この服どこで買ったかって聞いてるんだよ!」と言ってきた。指輪もはずそうとしてきた。残念ながら、私の指はむくんでいて、はずせませんでした。へっへ!
このとき、まわりにいた人たちは凍り固まってしまったそうだ。

その人は、私に相手にされないとわかると、他の人にからみだした。
そしてついに、「自分は鬼だ。先日の落雷も、都心に降ったひょうも、自分が起こしたものだ」と言い始めた。胸ぐらをつかまれても動じなかった私が、さすがにこのときは恐くなった。
この場所をつぶしてやる、と脅迫めいたことも言い出した。

その後、深夜に大暴れして緊急入院となったそうだ。おそらく強制的な措置がとられたのだろう。病気が引き起こした事態とはいえ、なんだかやるせない気持ちになった。

人はみな、病気にはなりたくない。たとえ、鼻風邪でもそれは肉体的・精神的に苦痛を伴うものだ。
でも、ほとんどの「体の病気」は、苦痛を味わうのは、病人本人である。(看護や介護の面で、家族・近親者が苦痛を味わうこともあるが)
それに対して「心の病気」は、その症状によっては、まわりの人多数を巻きこむことがある。もし家族なら、やりきれなくなってしまうだろう。

以前取材した、精神障害者の地域生活支援センターで働く人の言葉を思い出した。
「精神障害というと、どうしても偏見がありがちだが、心の病気というものがもっと理解されてほしい。(心の病気になる人は)みな、真面目でやさしく、がんばりすぎてしまう人々なのです。事件を起こすのはごく一部。非障害者が起こす確率のほうがはるかに高いといえます」

とりあえず戦争や飢えの恐怖もない、けれども複雑なこの現代社会において、誰しも少しは心を病んでいるのかもしれない。
私だって・・・と思いながら、今日もカラ元気を出して仕事をするのでした。
だって、締切間近なんだもん。病んでなんかいられないのだ。
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by gbsatomi | 2005-05-19 00:05 | DIARY

ご自慢秘蔵レアコイン

実はたいしてレアでもなければ、秘蔵というほどでもない。つまりインチキなタイトルだけど、他に自慢するものが何もないので、こんな詐欺タイトルでもお許しください。

古いコインを集めるのが好きです。マニアが集めるような、骨董的価値があるものではなく、おつりに「ギザ10」(側面にギザギザの入った昭和30年以前の10円玉)があったら喜んでとっておく、みたいな単純なもの。昭和20年代後半のものだと、もう半世紀以上流通してきたわけで「ご苦労さま」と言いたくなるし、その時代の人が持っていたものがまわりまわって私の手元に来た、と思うと一種感慨深いものがあるのだ。
だから、ギザ10を発見したらまずとっておく。

同じく5円玉も、昭和20年代のものは「日本国」の「国」の字が「國」になっているし、字体そのものが違う。ゆえに「長い間よく働いてるね」と、財布から秘蔵コイン収納マグカップ行きとなる。
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同じ理由で生まれ年、昭和37年のものも発見したら、使わずにとっておく。といっても1、5、10円しか持ってないけど。
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「私と同じ年に生まれて、同じだけ生きてるのね」と
親近感を覚える。



ところで、これはちょっと自慢できるかもしれない「昭和64年シリーズ」。
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昭和天皇の崩御は、昭和64年1月7日。つまり昭和64年はたった7日間しかなかった。63年の秋頃から「ご容態」が毎日発表されるなど、予断を許さない状態が続いていたから、ときの大蔵省造幣局も昭和64年と入った硬貨は、ひそかに作り控えていたのかもしれない。というのは私の推測にすぎないが、とにかく昭和64年の硬貨は現在、ほとんど流通してないといえるだろう。
それを私は100円と5円以外、全部持っているので~す!すごいでしょ?ってそうでもないか……

10円玉は、平成元年に比較的たやすく手にしたような気がする。(4枚所有)
1円玉はいつのまにか、所有していた。平成に入ってずいぶんたってからのことだと思う。
一番高額の500円玉を手にしたときのことは忘れられない。4年前の夏、あるガソリンスタンドに入り、洗車をしてもらってる間、自動販売機で飲み物を買った。普段、そんなときに飲み物なんか買わない。しかしなぜかその日はノドが乾いて「飲みたい」と思ったのだ。1000円札を入れて出てきたおつりに、光り輝く500円硬貨があった。
それは見た瞬間に「ビビッ!」とくるものがあった。
こ、これは…あ、あ~~~
……っ!!!ほ、ほんと!?
はやる心を押さえ、ドキドキしながらよく見る。「昭和64年」まちがいない。
ウソみたい、信じられない。
こんな、めったに使わない自動販売機から出たおつりが、こんなに珍しいものだったなんて…細々と「レアコイン」を集めてきた私に、神様からの贈り物かしら?など、大げさではあるがその時は大マジメにそう思った。

100円玉で古いものや生年産のものを全く持ってないのは、おつりなどであまりによく手にするので、いちいち確かめていられないからだろうか。おつりでもらうなら、10円玉も同じ頻度だとは思うが、100円玉は出て行く頻度も高いので、財布にとどまる時間が少なく、確認できないのだと思う。
こうなったら、生まれ年の100円と50円、そして願わくば昭和64年のものも手にしてみたいと思う。

ところで、この風変わりな500円硬貨は「長野オリンピック記念硬貨」。郵便局で振り込みをしたときのおつりにこれをもらい、びっくりした。
b0036381_22463625.jpg「つ、使えるんですか…?」「はい、普通の500円と同じですよ」。
でも、わたし的には珍しいから使えない、って。だから今でも持ってます。

母はこの手の記念硬貨をよく購入していたようで、遺品を整理しているとたくさん出てきた。
b0036381_22472824.jpg昭和51年「(昭和天皇)御在位50年」、昭和60年「内閣制度100年」、平成4年の「沖縄復帰20年」、平成5年「皇太子殿下御成婚」etc.
これまた使うに使えず、「特別なお財布」に入れてある。

さて、もしかして今日ご紹介したなかで、一番価値が高いかもしれないのが「500円札」。新券で4枚持っているのがささやかな自慢。
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売るとしたらいくらかな。
550円くらいだったりして。
そして、すっかりお久しぶりの2000円札。
b0036381_2249205.jpg皆さん、使ってますか?最近見たことありますか?
日々、生活必需品を購入している主婦としては「まるで見ません」。いったい何のために作られた紙幣というのか。日銀にごっそり置いてあるのか、それとも市中に出回ってはいるけど、千葉のスーパーがおもな買い物場である私には、まわってこないだけかな?
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by gbsatomi | 2005-05-15 22:59 | DIARY

男か女か

友人からメールがきて、面白いテストのURLが書いてあった。
題して「男脳・女脳度テスト」。

このサイトの説明によると、何年か前にベストセラーになった「話を聞かない男 地図が読めない女」の中にあるテストだという。(その本は立ち読みして、結局買わなかった)。
私はタイトルどおり、モロに「地図の読めない女」。この事実からすれば、私は「女脳度」が高いのかもしれない。
でも、自分ではなんとなく「男脳」のような気がする。だって、一般的な「女性が好むもの」にはあまり興味がなかった。特に芸能関係。
とにかくテストをしてみた。

予想的中!「脳度120」 で男脳と判定されました。
なになに・・・男っぽい脳とは、本によると「理屈っぽく、無謀で、無神経で、言い訳がヘタで、一度に一つずつしか作業をこなせず、誇張表現が好きで、野心家で、スポーツ好きで、セックスのコトばかり考えている」とのこと。
いやぁ~、勘弁して・・・「一度にひとつずつしか作業をこなせず」「スポーツ好き」 はあっているかもしれないけど、特に最後の項目は絶対違います!!
逆に女っぽい脳とは「衝動的で、優柔不断で、嫉妬深く、他人のウソをすぐに見抜き、縦列駐車がヘタで、甘いモノが好きで、おしゃべりで、噂話が好きで、他人のコトにすぐ首を突っ込みたがる」 そうだなあ・・・「他人のウソ」は結構見抜けるかもしれない。あと、「甘いモノ好き」これは大当たり。「おしゃべり」 うん、決して無口とは言えないでしょう。でも、口は堅いつもりだけど。
まあとにかく、私は「男脳」ということらしい。でも地図読めないのに・・・

そのテストの最後にこう結ばれていた。
「平均的に、男性は150点以下、女性は180点以上になる。
150~180点の場合 中性的な脳であり、男女間のギャップを埋める橋渡し役になれる。
ちなみに男性で180点を超える場合、ゲイになる可能性が高いらしい。
また女性で150点未満の場合もレズビアンになる可能性が高いらしい。」

レズビアン?・・・・・こ、これは絶対ありえない!
私は、男の人が好きで~す!!

(皆さんもやってみてください。
http://a-8.hp.infoseek.co.jp/brain.html)
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by gbsatomi | 2005-05-05 23:57 | DIARY

さらば小学校

17日は次男の小学校卒業式だった。
あいにくの雨だったが、式は滞りなく終わった。
これで足掛け8年に及ぶ私の小学校ママ生活もおしまいだ。
この子が卒業する頃は40過ぎてるんだわ、と思うと恐ろしくなった、まだ30代前半のママだった私も、もう年齢のことなど気にもしない、肝っ玉母さんとなった。
時の過ぎるのは本当に早いものだ。

あちこちから「泣くでしょ。最後の子だもん」など言われたが、意外と平気だった。
2年前、長男の時もそうだったが、うちの小学校の卒業式というのは、どうもシステマチックというのか、機械的というのか、あまりにも整然としていて、完璧なほど訓練されていて、何か血のかよったものがいまひとつ感じられないのだ。
例えば幼稚園の卒園式では、在園児が出てきてかわいい声と身振りで歌を歌う場面で、母親たちの涙腺は全開となったものだ。
今どきの小学校は、昔のように代表児童が答辞と送辞を述べる、などというものではなく、全員参加で「呼びかけ」の言葉を言うのだ。もちろん各人のセリフを与えて。(そういえば30年前、私のときもそうだったっけ)
その「呼びかけ」のセリフがあまりに作られすぎている、というかきれいごとに終始していて、また、我が子をはじめとする普段は不真面目な男子たちも、そのときばかりは真面目にそれをやるので、なんというか面白みに欠けるのである。
まあ、こんな感想を持つのは不良母の私だけかもしれない。

次男は実に友達に恵まれていて、牧歌的な香りあふれる少年野球チームにいたこともあり、野生児のような小学校時代を過ごした。そんな男の子たちの、今しかできないようないたずらっぽい笑顔が好きな私には、堅苦しい卒業式で真面目にセリフを言う悪童たちが、ちょっと窮屈そうに見える。
ちなみに、この時期話題になる「日の丸・君が代」は、わが小学校ではごく普通に国旗が学校旗と並んで掲揚され、国歌は全員起立して歌った。「先生で立たない人いるかな」と背伸びして職員席をのぞいたが、誰もいなかったようだ。私も、久々の合唱の練習のように、大声で歌った。

こんな私だが、最初から不良母だったわけではない。
長男のときは、何もかも母にとっても初めての経験なので、とても神経質に、慎重になっていた。まして、内向的で友達の少ない長男のこと、母親同士の付き合い一つにも、とても神経を使ってしまったものだ。
ところが次男ときたら、キャラ的に長男と180度違ううえに、こちらも同性の2人めだ。これが女の子だったりしたら、もう少し構えていたかもしれないが、もう私は悠然と子育てをしてしまった。といえば聞こえがいいが、要するにほったらかしで育てたということだ。
長男が2歳2ヶ月のとき生まれた次男は、気がつけば寝返りをしていたし、いつのまにかお座りをし、はいはいするようになっていた。長男の時のようにいちいち発達段階を覚えていない。長男が寝ているときは、物音をたてないよう気をつけたものだが、次男のときはそれも皆無。彼はお兄ちゃんの友達―2歳児が5、6人「キャーー!!」と騒ぎながら走りまわっている部屋で、すやすやと寝ていた。母親がこんな態度で育児に臨んだのだから、彼が大胆不敵な野生児に育つのも無理ないかもしれない。

というわけで、卒業式の間中、私は不良母の面目躍如、まわりの人にちょっかいばかり出していた。
ななめ前に座っているAさんは、アンジェリーナ・ジョリーばりのナイスバデーの持ち主。ボディコンシャスなスーツに身を包んだ彼女がしきりにハンカチを顔に当てているのを見てとんとん、と肩をつっつく。
「泣いてるの?」
「鼻炎よ!」

隣に座っているBさんは、そんじょそこらのお笑い芸人より面白い女漫才師のような人。やたらと目頭を押さえているので今度はひじで軽く彼女をつっつく。
「泣いてるの?」
「違うの。左目にゴミが入ってさっきからこっちだけ涙が出てるのよ」

まあまあみんな、本当は泣いてんだかどうか。

今度は正装しているお母さんたちの、後ろ姿…髪形に目をやる。
どうも、皆さんヘアケアまで神経がいかないようだ。
ばさばさと、ツヤのない髪がほとんどだ。ドレスアップしているだけに髪とのアンバランスが残念だなあ、と思いながら自分のことは棚に上げて、私はにわかピーコになっていた。

式次第がすべて終了し、いよいよ卒業生退場。さすがに緊張が解けたのか、1年生の頃から知っている悪童たちが、にこにこ笑いながら拍手に送られて出ていった。みんな、大きくなったなぁ~・・・・・女の子たちのいでたちは、おしゃれな高校制服のように、ほとんどがブレザーとチェックのスカートで、彼女たちはそれを上手く着こなしているが、男の子ときたら、きりり、とネクタイをしめたブレザー姿が何となく借り物のようで、滑稽である。でもみんないい笑顔で出ていった。私の顔にも自然に笑みがこぼれているのがわかった。

そんなこんなで卒業式は終わった。
その後は、幕張プリンスホテルの49Fで、クラス全体のお食事会。ところがこのレストラン自慢の眺望は、あいにくの雨のため「雲の中」状態だった。飛行機に乗っているつもりでいましょ、と母親たちはよく食べよく笑い、我が子の小学校生活をふりかえった。
Cさんが、式の間ぼろぼろ泣いていたと聞き、早速ちょっかいを出しに行った。
「泣いてたんだって?」
「そうよ~。デキの悪い子ほどかわいいのよ」

そんなCさんに比べ、特に感慨もなかった、次男の小学校卒業。
お食事会がお開きになって、仲良しのお友達、Dさんとお茶を飲みながらどうしてかな、と考え、もしかして最近の私は精神的に疲れ果てていて、さらに感動したり、感激したり、という精神作用を及ぼすような事態になることを、防衛本能で回避しているのでは、という結論にいたった。
Dさんは、私と家庭環境が酷似していて、私たちはときどき心の棚卸しをするため、食事に出かける。たいていどっちかが泣いている。その日は2人で泣いた。残念ながら、お互いの子どもを卒業させた感激の涙ではなかった。

さて次男は翌日、今どきの子恒例の小学校卒業記念旅行、ディズニーランドに行ってきた。絶対単独行動をしないこと、トイレにも必ず誰かと行くように、などと言って聞かせたが、帰ってきて話を聞くと、冷や汗ものの珍道中だったようだ。幸い何事もなく、楽しい思い出、いい経験ができたのが何よりであった。

4月6日の中学入学まで、3週間足らず。いつもほったらかしにしてきた彼と、ちょっと濃密な時間を過ごそうかな、と思う。
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by gbsatomi | 2005-03-19 02:05 | DIARY

今日は特別な日

3月14日。
巷ではホワイトデーなどと言われているが、私にとってこの日はとても大切な日。
一昨年亡くなった、母の誕生日なのだ。

生きてたら今日で71才。
再選された、千葉県の堂本知事(72)と同年代。4年前、堂本さんが68才で立候補すると聞いて、「ほぼ同じ年でも、元気だなあ」と感心したものだ。母がだんだん弱ってきた頃だった。

2003年10月9日。奇しくもジョン・レノンの誕生日に母は逝った。
澄み渡る青空の、素晴らしい秋晴れの日だった。前夜は中秋の名月がこれまた美しく、夜空にくっきりと浮かんでいた。
地下の霊安室から母の遺体につきそって寝台車で出てきたとき、まぶしいくらいの陽光が射してきた。3時間ほど前に母を失った私は茫然自失だったが「太陽みたいだったママらしく、こんな日を選んで逝ったのかしら」と、ぼーっと考えた。

その年の4月頃から母は入退院を繰り返していた。
私は往復5時間かかる病院まで、可能な限り通った。
私が行った日はたいてい具合がよかったので私の仕事は看病じゃなく、話し相手だった。
6月頃、たまたま私が病院にいるときに母の容体がとても悪くなった。入院していてもいつも明るく元気だった母の、その衰え様を目の当たりにして、私は恐れおののいた。母が落ちつき寝入ったのを見届けて、トイレに駆け込んだ。涙がとめどなく溢れ、声を殺して泣いた。マスカラもアイシャドウも全部流れ落ちてしまった。この時以来、現在までマスカラはウォータープルーフのものしか使えなくなった。ドライアイだった目は、いつも涙で潤うようになった。ちょっと乾き気味だな、と思ったら母のことを考えたらすぐに潤ってくる。小説やドラマで、子どもを亡くした母親などのセリフで「あの子のことは1日たりとも忘れたことはありません」というのがよくあるが、私も母のことを思い出さない日は本当に1日もない。いいトシになってるのに、幼い子どものようにいつまでもメソメソしている。

その「メソメソモード」は1人でいるとき、突然やってくる。
困るのは車を運転しているときだ。一度そのモードに陥ったらしばらくは修復不可能。夜の運転中など、街灯の光が涙のせいで長く尾を引き、視界の悪いこと。このときは恐怖を感じる。
台所でお料理しているときにも、よく陥る。あるとき、敏感な次男が「ママ、たまねぎ切ってるの?」と聞いてきた。私がしくしく泣いているのに気づいたらしい。
そして生活習慣で最も変わったことと言えば、母の死以来、夜にお風呂に入れなくなってしまったことだ。
私はいつも長風呂で、ゆったり入るのが好きだが、そうすると思い出すのは母のことばかり。「今日はママのこと考えるのをやめよう」と決心して入っても、どうしても思い出してしまう。当然悲しくなる。だから、夜は疲れにまかせて寝てしまい、朝、子どもたちを送り出した後あわただしくお風呂に入る習慣がついてしまった。朝なら忙しいので、余計なことを考えずにさっさと入れるから。

こんな私だが、息子たちの前では涙を見せない強い母を気取っている。
母が逝って1ヶ月たった頃、長男の誕生日がやってきた。
初孫だった長男を母はことのほか可愛がっていた。
「もうすぐこうちゃんのお誕生日ね。今年は何にしようかしら」と、その時期になるとウキウキした声で電話してきた。その長男の13才の誕生日に、母からのプレゼントはもう届かなかった。一番のお気に入りの孫に、どんなにあげたかったことかと思うと、突然「モード」がプッツン!と切れた。「号泣」のお手本のように、ワーワーと泣いてしまった。そんな私を見て、中1と小5の息子たちは、もうどうしようもないほど困った顔をしていた。泣きながらも、「もうこんなにこの子たちを困らせてはいけない」と強く思った。だから、彼らの前で母の思い出話をするときはいつも笑顔で明るく話す。まさか、彼らは、私がいまだに毎日メソメソしているだなんて想像もしていないだろう。

臨終の際、病室にいた女性は私だけだった。父、兄、私の夫、息子2人。兄の妻と娘は駆けつけられなかった。モニターの数値がだんだん下がり、0をずーっと示すようになると医師が脈をとって、腕時計を見る。「○時○分、ご臨終です」まるでドラマの1シーンのようだった。しかし沈着冷静な私の実家の男たち(父と兄)はドラマのように、ワーっと声を上げて泣くような真似はしない。主人も息子たちもベッドから離れたところで立ち尽くしている。母の傍らで泣いているのは、私だけだった。一緒に泣いてくれる親族の女性がいてほしかった。

一つ不思議なのは、危篤の知らせを受けて早朝家を飛び出した時から一場面一場面を全部覚えていることだ。
年々モノ忘れがひどくなっていく脳細胞だが、病院にかけつけるまで、それからのこと、あらゆるシーンがしっかり脳裏に刻まれていて離れない。これも一種のトラウマというのだろうか。

亡くなってから一連の儀式のなかで、一番つらい瞬間はやはり火葬の瞬間だと思った。通夜が終わり、慌しく翌日の告別式の準備をしながら、私はほぼ一睡もせず母への手紙を書いた。これを棺に入れて一緒に焼いてもらおう。そう思って、その時の思いのたけを便箋6枚にびっしり綴った。いろいろ段取りするなかで、母に聞きたいことがいっぱい出てきた。「ねえ、ママ。どうすればいい?どうしてほしい?」しかし母は静かに横たわっているだけでもう口を開くことはない。手紙には、そのとき母に聞きたかったことをいっぱい綴ったが内容についてはほとんど覚えていない。そして手紙に添える、天国に持っていってもらいたい写真をあれこれ探した。この手紙は、私の神経を鎮める予想外の効果があった。母が焼却炉に入れられてしまうときも、乱れることなく耐えられたし、一番ショッキングな瞬間―お骨になって出てくるとき、衝撃が走ったが、やはり泣き乱れることなく対処できたのだ。
斎場の係員が、これはどこの骨、この人はまだ若かったので、骨の量が多いですね、もっと高齢だとこの半分くらいしかないんですよ…などと説明しながら骨壷に骨を入れていく。そのとき、5ミリ四方くらいの骨のかけらが私の前、手の届くところに飛んできた。
「このかけらがほしい」と反射的に思った。でも、そんなことをしてはいけないのだろうか、またはこの係員が最後にこれも骨壷に収めてしまうのだろうか、との思いがよぎった。一連の仏事は、経験のない私には全くわからない。「どうしよう…」しばらく迷ったあげく、思いきってそのかけらをつまみ、素早くポケットにしまった。係員は見てみぬふりか、何も言わなかった。例え5ミリの骨のかけらでも、母にそばにいてほしかった。今でもそのかけらは私のお守りとなっている。

私たちは、よく言われる「一卵性母娘」とは違い、わりとさっぱりした関係だった。あまりべったりした仲ではなく、お互いかなり独立性を保ってそれぞれの世界を楽しんでいた。離れて暮らしていたので、母が亡くなっても私の日常生活はなんら変わるものではなかった。
しかし、ちょっとしたことを話したいと思って電話しようにも、もう母はいない。これだけ通信手段が発達し、世界中どこでも、南極でも、ロケットで宇宙に行った人とでも通話ができるというのに、天国に行った人とだけはどうしても話すことはできないのだ。
早く母に会って話がしたいなあ、と思う。私の数年前にやはりお母さんを亡くした親友は、仏壇を拝むとき「ママ、私が死ぬ時は絶対迎えにきてね」と言うと聞き、私もまったく同じだったので驚いた。

入院中に母がぽつんと「ママはなんでも1人で耐える運命なんだわ…」とつぶやいたことがある。2歳で実の母と死に別れ、祖母に育てられた母は10歳くらいで1人田舎に疎開に行かされ、辛い目にあったそうだ。
結婚してからはきょうだい中でただ1人、転勤族の妻として、見知らぬ土地を転々とし、たくましく生きてきた。
「なんでも1人で耐える運命」。
私には娘も姉妹もいないので、何かにつけて母のこの言葉を自分にオーバーラップさせてしまう。

早く母と話がしたいが、息子たちが私を必要とする間は、がんばらなくてはいけない。母は死んでからも、私のことをずっと心配していると思う。それだけ親不孝な娘だ。せめて母の誕生日である今日だけでも、心穏やかに過ごしたかった。

ママ、もうすぐけんちゃんは小学校卒業だし、お兄ちゃんはこの土曜日、転勤で大阪に行ってしまうのよ。いろんなことが交差する早春。ママの誕生日なのにゆっくりお祝してあげられなくてごめんね、と親不孝娘は今日、母の遺影に向っていつものように謝った。

(今日はごく私的なことを書いてしまいました。今後、更新をまめにするためにも日記形式にしようと思っています。よろしくおつきあいください。
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by gbsatomi | 2005-03-14 23:14 | DIARY

今年もチョコが日本中を飛び交う(20年前のOL編)

バレンタイン回想録第2弾は花のOL時代。
実質3年足らずという「腰掛けOL」(今は死語ですね)だったが、自宅通勤なのに一銭も家にお金を入れず、自分のことだけ考えていればよかった、人生で最高にのんきな時期であった。

私が入社したのが1985年だから、バレンタイン的には「義理チョコ」が市民権を得た頃、といえるだろう。
社内でも、その前日に各フロアをまわり、「明日お願いね」と「選挙運動」する同期の男性社員D君がいた。彼の報告によると、運動の効果が実り、本社で一番モテたI君についでチョコ獲得数2位だったと自慢していた。しかし同期男性ダントツ1位は現ユニ○ロ社長のT君。幼稚舎からの慶應ボーイでラグビー部レギュラー、わが社らしからぬ華やかなルックスを持つ彼は、そのとき千葉工場にいたにもかかわらず、本社や各支店から社内メールでチョコが殺到したというモテ男だった。ちなみに私はあげてません。
この頃は、①「義理以外のなにものでもないモロ義理チョコ」と、②「義理以上、絶対本命ではない仲良しチョコ」そして③「あなただけよ大本命チョコ」に分かれていたような気がする。
私の場合、妙齢というのに③は悲しいことに、いない年もあった。すると、②を面白おかしく選ぶことが、バレンタインの時期ならではの楽しみでもあった。

私の所属していた部は100人超の大所帯。その中で独身男性は5、6人という圧倒的オヤジの職場だった。そしてこの中に「仲良しおじさん」が何人かいた。
それは、たまに誘われて飲みに行ったり、お寿司を食べたり、カラオケに行ったり、はたまた銀座や六本木のライブハウスに連れていってもらったりする人達のことで、もちろんそれは複数で行くことであり、120%、健全なものであった。いずれも40半ばくらいのおじ様たちだったから、娘を連れて行くようなものだったのだろう。若手同士でアフター5を楽しむこともあったが、おじ様たちに同行するのも、それはそれで楽しいものだった。
こういう人たちに渡す「お気楽仲良し義理チョコ」は朝、会っていきなり「はい、チョコです」と手渡しする、オープンなものだ。そのノリで何人かあげた中に、同じフロアだが違う部のTさんがいた。
社内バレーボール大会で親しく話すようになったTさんは、家の方向が同じだったので飲み会の帰りも一緒に電車に乗ることが多く、そんな時は娘さんの大学進学について私に意見を求めてきたりする「いいお父さん」だった。Tさんは、たまたまバレンタインの朝、姿が見えなかったので、机の上に無造作に置いておいた。
その翌日の午後。
「Yちゃん、(私の旧姓)○○部のTさんから電話よ」と先輩の声。えっ、何だろう?仕事上では直接関係ない人から電話って珍しいなあ、と思って出たら
「昨日は朝来て、すぐ出張で福岡に行った。チョコレート、ありがとう。嬉しかった。
(少しの沈黙)それで…今日夜、羽田に来てほしい。○時○分の便で着くから。羽田東急ホテルで会いたい」
と言うではないか。
その口調は感情を押さえ強引で、いつものまじめでにこやかなTさんとは全く違った。

これには、世間知らずだった私もたいそう驚き、とまどった。「何か、勘違いしてない…?」しかし、とっさに何と答えていいかわからなかった。
「夕方、もう一度電話するから」と言ってTさんは電話を切った。

どうしよう…そんな…私、Tさんと2人で会うなんてそんなのイヤだわ。ただの仲良し義理チョコなのに、どう受け取られてしまったのか…

今にしてみれば、「えっ?今日?ダメなんです。そんな、お気遣いなく。ただの義理チョコなんだから」などと言えばよかったものを、当時はそうやって上手く切り返すこともできなかったのだ。夕方、もう一度電話がある前に何か対策をとらなければいけない。そこで愚かな私が考えたのは、違う会社にいたK君に電話をかけることだった。

K君は、学生時代にホームステイ先で知り合った仲間で、就職先も私の会社から3軒となりのビルだったりしたので、彼の職場の仲間と私の職場の仲間でいわば、「グループ交際」的なことをしていた。当時彼とは「友達以上、恋人未満」という言葉がぴったりの関係だった。
「ねえ、今日夜、羽田につきあって。私、車を出すから。実は会社のおじさんが
これこれしかじかで…一緒についてきてほしいの」
携帯もメールもない時代のことである。就業時間にこんな電話をしていたのだ。
K君は、私の急な申し出を引き受けてくれた。

そして夕方、約束どおりTさんから電話があった。
「あの、私の友達も一緒に行っていいですか?彼は○○○(会社名)のエンジニアで、Tさん(同じくエンジニア)ともお話が合うと思うんです…」と、何とも間抜けなことを言った私に、Tさんは、「そう、わかった。いいよ。じゃあ、○時に羽田東急のロビーで。飛行機の発着が見えるレストランで、あなたと話がしたいと思ってたんだ」と言った。

そして約束どおり、そのレストランで3人で会い、当たり障りのない話をして、適当な時間に別れた。食事代は、すべてTさんが持ってくれた。

今考えたら、私は2人の男性に対してとても失礼なことをしていたわけで、悪気はまったくなかったとはいえ、若気のいたり、はたまた世間知らずの骨頂というべきか、何とも愚かなことをしたものだと思う。
バカ正直で、不器用で、世事にうとかったOL時代、他にも似た類のことをいくつかしていた。後に、あれもいい社会勉強であったと思ったが、教材にされてしまった方たちには大変申し訳かったと今でも反省している。

時は流れて、社会で女性の立場が圧倒的に強くなり、また企業においても「腰掛けOL」なんて化石のような人種はいなくなった今、職場のバレンタイン模様もかつてとは様変わりしていることだろう。変わっていないのは、デパ地下のチョコ売り場の混雑と、あれこれ楽しく選ぶ女心、そして、たとえ義理でも、女性にチョコをもらうと嬉しい(のかな?)という男性心理であろうか???
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by gbsatomi | 2005-02-13 01:08 | DIARY

今年もチョコが日本中を飛び交う(青春の入り口編)

というわけで、いよいよ近づいてきたバレンタインデー。
ローマの殉教者、St.Valentineの命日にちなんで、欧米ではこの日、恋人同士がプレゼントを交わす日とされる。特にこの日は、女性が男性に愛を告白してもよい、とされたわけで、それは「愛の告白」などというものは、通常男性から女性にするものとされていた古き良き時代の「特別な」風習とでもいうものだった。だから特別な意味を持つこの日の存在意義があったのだ。
昨今では洋の東西を問わず女性から男性に告白することは日常茶飯事、とまでいかなくても珍しいことではないだろうから、このSt.Valentine’s dayは、欧米ではとりたてて意味のある日でもないのかもしれない。

ところが日本では、チョコレート業界全売上げのなんと9割がこの時期のものという、国民的一大イベントになってしまった。
仕掛け人は神戸のチョコレートメーカーといわれている。その商戦が大当たりし、いまや老いも若きも、国民全女性こぞってといっていいほどチョコを買い、「本命」以外の「義理チョコ」探しに精を出すという、なんとも日本的な風習を生み出しているのだ。b0036381_2130696.gif

さて、ご多分にもれず「義理チョコ」を買う私ではあるが、本当はこんな商魂にのってしまうのはイヤで、できればみんなが純粋にonly oneのチョコをあげるべきだと思っている。
だって、女性には本当はそれが一番幸せなはずだから。
中1のとき、初めてバレンタインにチョコを渡した、あのドキドキする高揚感は、たった1人の人に渡すから味わえるものだと思うからだ。

その頃、違うクラスのT君に憧れていて、彼にチョコを渡せたらなあ、と思っていた。そして、同じクラスで彼とバスケット部で仲の良かったO君に、T君のことをリサーチし始めた。
O君は面白がって、T君のことをいろいろと教えてくれた。「付き合ってる彼女?いないみたいだよ。どんな子が好きかって?髪の長い子みたい。ねえ、なんでそんなこと聞くの?」
「いや…ちょっとね。なんでもない」
このリサーチは3日ほど続き、そのたびに彼はニヤニヤ笑いながら「なんでそんなこと聞くの?」と尋ねた。答えはわかってるはずなのに。私は「いや、なんでもない」と答え続けた。

そしてある土曜日の午後。意を決して私は、親友と一緒にデパートにチョコを買いに行った。
あのときの、大人になったような気分は忘れられない。
デパートなんて、親と行くものと思っていた場所。そこに、友達と来ただけでも興奮する出来事なのに、さらにお互い好きな男の子のためのチョコを選びに来たという事実が、当時の13才の少女には十分すぎる、刺激的な体験だった。
といっても、チョコ選びなんてあっさりしたもの。
私の記憶では、現在ほど大規模で派手な売り場もなく、1ヶ所にチョコが集まっていた。その中でお小遣いで買える範囲の、せいいっぱい大人ぽいものを選んだつもりだった。
でも、そのチョコを学校に持っていくために包んだのがスヌーピーのランチバッグ。いかにも子どもの仕業ではないか。

チョコを買い用意周到となった私は、さらにO君に、T君のことをリサーチした。O君はついに「なんでそんなことばっかり聞くんだよ~、Tのことが好きなんだろ」と言い始めた。
「そんなことないよ」と苦し紛れに言う私にO君は人懐っこい目つきで「だったらなんでそんなにTのことが気になるの?」と問いかける。ついに私は「あの…だから…ちょっと憧れててね」と白状した。O君は我が意を得たとばかりに得意満面になり、さらにT君の攻略法などをいろいろ教えてくれた。当時、O君の斜め後ろの席が私で、休み時間ごとに交わすそういう会話はとても楽しかった。
そのうち、私は「T君にバレンタインのチョコあげたいんだけど、受けとってくれるかな?」と恐る恐る聞いてみた。O君は「そりゃあ、受け取ってくれるよ!」と、自分のことのように喜んで言った。

そして、いよいよ明日がバレンタインという、1976年2月13日。
「女心と秋の空」とはいうが、どういう心境の変化か――私は、急にO君にチョコをあげよう、と決心したのだ。
「白状」して以来、O君は自ら私に「Tはねえ~」などと、T君の話をするようになった。昨日の部活での出来事など、面白そうに解説してくれるのだ。その人懐っこい笑顔が私の琴線に触れてしまったのか?自分でもどうしてそういう行動をとったのかわからない。
とにかく、「O君っていい人だな」と思い始めた私は、話したこともないT君にあげるより、O君にあげよう、とバレンタイン前日に初心を覆してしまったのだ。

さて、当日。
スヌーピーの紙袋に入れたチョコを革の学生鞄に押し込み、ドキドキしながら学校に持っていった。朝のHRでは先生が型通りに「今日はチョコなんて持ってきた子、いないでしょうね」と念を押す。
禁じられていることを実行する、ということに少し罪悪感を覚えたが、それがまた何ともいえない快感でもあった。
放課後、女友達の協力を得てO君を校舎の陰に呼び出す。飄々とやってきた彼の面持ちは、まさかチョコを渡されるなんて予想もしていないように見えた。
私のドキドキも最高潮に達する。けど、しっかり言わなくちゃ。
「はい、これ、チョコレート…あげる!」
「?……………あ、ありがとう…」
人懐っこい目を一層丸くして、彼は言った。キツネにつままれたような気分だったに違いない。
その間、ほんの15秒足らず。甘酸っぱい私のファースト・バレンタインだった。

その日、家に帰ってから私は自分のしたことを後悔し始めた。O君に渡してしまったことにより、もう明日から恥ずかしくて彼と話せないような気がしたのだ。
こんなことなら、クラスも違って顔も合わすことのないT君にあげたほうがずっと良かった、当初の予定どおり…と後悔の念が強く残った。

そして翌日。
不安な気持ちで登校した私に、先に来ていたO君は振り返って、ちょっと照れくさそうに、でもきっぱりと爽やかに言った。
「昨日は、チョコレート、ありがとう!」
いつもの人懐っこい笑顔だった。
何と答えたか覚えていない。でもこれで、また普通にO君と話せる、との安堵感に覆われたのだった。

義理チョコなんて概念のなかった時代、純粋だった頃のバレンタインの思い出は、今でも色褪せず残っている。
もう二度とできない経験…だろうなぁ~。
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by gbsatomi | 2005-02-09 17:12 | DIARY

2人の貴人と1人の凡人

突然ですが問題です。
ダイアナ元英国皇太子妃とわが国の皇太子妃雅子さま、そして不肖このわたくし……には、ある共通点があります。それは何でしょうか?
まあ、いったいどういう取り合わせなんでしょう。よくもまあ、いけしゃあしゃあとこんな貴人がたとおのれを並べて、と某O氏に叱られそうですが(^^)
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答えは「同世代」。
ダイアナ元妃は1961年、わたくし1962年、雅子妃殿下1963年生まれ。つまりこのお二方とわたくしは同世代の女性として、この世に生を受けたのでございます。

1981年、弱冠20歳の初々しい皇太子妃の誕生に、英国のみならず世界中が熱狂した。
その類稀なる美貌と気品で、人々を魅了したダイアナ妃。
2人の王子に恵まれ、その人生は絵にかいたようなシンデレラストーリーとなるはずだった。
ところが、彼女はやがて「元妃」と呼ばれるようになり、悲惨な交通事故で36年の生涯を閉じてしまうことになる。

お正月に、あるニュース番組で「独占!ダイアナ元妃未公開ビデオ」と題した、いかにもセンセーショナルなコーナーをやっていた。それは、元妃が彼女のボイストレーナーに、自分の半生を赤裸々に語る、というものだった。
元妃は離婚後、HRH(Her Royal Highness)の称号をいかして、社会に関わっていこうとした。慈善活動に力を入れ、対人地雷の廃絶運動に貢献した。その頃の彼女のスピーチを見ると、実に堂々としていて、昔「Shy Di」と言われ、上目遣いでぼそぼそと話していた姿はみじんもない、強く生きる大人の女性に変身していた。それは、このボイストレーニングによるものだったというのだ。

問題のビデオは、トレーナー氏が彼女の家で撮影したものだった。元妃は、問われるままに、チャールズとの結婚にまつわる信じられないような話を、リラックスして語っていた。
その中で、元妃が突然「キャーハッハッハ!キャーッ!」と大笑いする場面があった。それは、あのダイアナ妃が、こんな笑い方を…?と誰もが思う―まるで下町のおばさんのような―笑い方だった。すかさず次男ヘンリー王子が「ママ、ビデオがまわっているんだよ、下品だよ」と、かわいい声で言う。それに対し「Sorry!」と言いながらまだ大笑いを続ける元妃。
トレーナー氏によると、彼女が自信を持って堂々と人前で話せるようになるためには、自分を洗いざらいさらけ出して、自分を見つめ直すことが必要とのことだった。つまり、彼女はビデオカメラに向って自らを語ることにより、鏡と向き合っているような効果があり、このトレーニングを積むことにより人前で堂々とスピーチができるようになる、というのだ。

その内容は、チャールズ皇太子と結婚するまでに13回しか会ってなかったことや、結婚後の性生活、彼女の愛人だった元ボディガードが「始末」されたことなど、暴露本のような内容が屈託のない笑顔で語られていた。まさか、彼女はこのビデオが後に日本のニュースで流されるなど想像もしなかっただろう。トレーナー氏は「なぜこのビデオを公開したのですか」という問いに「真実を伝えるため」と答えた。とはいうものの、これは故人を冒涜する行為ではないか。
「死人に口なし」。「パパラッチ」という言葉が横行したが、彼女の生涯は死してなお、世界中の好奇の目にさらされるという運命なのか。

世界的な「スター」だったダイアナ妃にまつわる話は、日本でもしばしば報じられた。「ロックバンド『Duran Duran』のファンで、彼らの演奏を宮殿で楽しんだ」と聞いたとき、その頃の流行りの音楽を好む、普通の女の子と変わらない人なんだと親近感を覚えたものだ。そして、チャールズ皇太子には年上の愛人、カミラ・パーカー・ボウルズ夫人がいる、ということが写真つきで伝えられた時、「あんな若くてきれいなお嫁さんをもらいながら、こんなしわくちゃおばさんと…」と思ったのは私だけではあるまい。
ダイアナは幼いとき両親が離婚して母親が家を出ていき、愛情に飢えていた。
「私は愛を求めて結婚した」と、彼女はビデオで語った。しかし、チャールズは結婚前からあったカミラとの関係を続け、形ばかりの夫婦となったダイアナは孤独と戦っていたのだ。

やがて別居、離婚となり、独身で将来の英国国王の母となった彼女のまわりには、より華やかな話題がついてまわった。
1997年パリで起こった悲劇は、表向きにはパパラッチから逃れるために猛スピードで走行中の事故だったとされているが、陰謀だったという説が根強く残っている。彼女はボーイフレンドのエジプト人富豪、ドディ・アルファイド氏と同乗していた。そして彼の子を身ごもっていて、将来の英国国王(ウィリアム王子)の異父兄弟にエジプト人の血が混じることを嫌った王室及びその周辺が、「始末」を…という、恐ろしい話もまことしやかに伝えられている。
真相は藪の中だ。
救急隊が到着したときの呼びかけに、彼女が息も絶え絶えに発した最後の言葉が「Leave me alone」だったという。
あまりに悲しすぎる言葉ではないか。
アルファイド氏は彼女が求め続けた「愛」を与えてくれる最初で最後の男性だったのかもしれない。数々の浮名を流した彼女だったが、女性としての本当の幸せをやっと掴んだのかもしれないというのに。
何よりも、母としてまだ年端もいかない男の子2人を置いて逝ってしまうのは、どんなに心残りだったことだろう。
数奇な運命に翻弄されたダイアナ妃の生涯を思うとき、異国の凡人である私は、同世代の女性そして同じく男子2人の母としてシンパシーを感じ、冥福を祈らずにはいられない。

そしてわが国の皇太子妃雅子さま。
「適応障害」ということで、もう1年以上も公務を離れ静養を続けられている。お世継ぎ問題、新しい公務のあり方等、皇室には様々な問題が噴出しているようである。
「ご婚約内定」のニュース速報を見たとき、私の世代の多くの女性が「えっ!本当!?」と思ったのではないだろうか。
「小和田雅子さん」は、当時の若いキャリアウーマンの、名実ともにトップをひた走る人であった。そんな人が皇室に入って、まるで飾り物のように微笑みながら手をふるだけ(のように見える)お妃の役目に甘んじていられるのか。いささか不敬な言い方だが、そう感じた人は少なからずいるのではないだろうか。

雅子さまは、新年の一般参賀に1回だけお出ましになった。笑顔でお元気そうに見えたが、公務の本格復帰はまだのようだ。しかし、最近、林田東宮大夫が「今後は愛子さまも一緒に公務に連れていかれることもある」と会見し、その第1回目が2月に長野で行われる、スペシャルオリンピックス冬季世界大会であるとも伝えられている。もしこれが事実ならば、3才になりたての愛子さまをこの寒い時期に遠い場所に連れ出し、一定時間拘束するのは、どう考えても無理がある。それが宮内庁の意見なのか、皇太子ご夫妻のご意向なのかはわからないが、やはり雅子さまの精神面でのご体調は完全とはいえないのではないだろうか。
かつて外国メディアに「かごの鳥」とも伝えられた雅子さま。ご結婚直後の、輝くような笑顔を取り戻されてほしいと、切に願う。

同世代の2人の貴人の人生に思いを馳せながら、凡人は思う。
平凡きわまりない名もなき人生。なかなか思うようにいかない人生。欲しいものが簡単に手に入らない人生。生活するためにせっせと働く人生――でもこれでよかったのかな、と。
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by gbsatomi | 2005-01-24 00:03 | DIARY

ながらくご無沙汰いたしました

皆様、お久しぶりでございます。
「冬眠」している間に、いつしか2005年となり、その新年のご挨拶をする機会も逸してしまいました。
その間、この拙いブログに連日お越しいただき、ありがとうございました。そして、来る日も来る日も更新することができず、大変申し訳ありませんでした。
わたくし、「椎間板症」にて、家庭内入院生活を余儀なくされていたのでした。

それは、昨年12月25日の朝、急に私を襲いました。
「腰が痛い!」
何をきっかけにしたわけでもなく、突然歩行困難に。
とりあえず、ソファに横たわると、もうそのまま起きあがれませんでした。

「ぎっくり腰」ってやつかしら…よく3日間寝たきりだった、などという話を聞くし。
と自分で判断して、本当に寝たきりの生活になりました。ところが4日たっても、治るどころか、悪化するばかり。横たわる以外、何もできません。歩くことはもちろん、立つことも座ることも。寝ているときでさえ、痛みが走ります。
連日の忘年会で飲んだくれていたDも、さすがに病院に行くべきだと言いました。近所の整形外科が29日まで診療していたので、駆け込みセーフで担ぎこまれました。

レントゲンを撮ると、椎間板の最下部の間が狭まっている。これが痛みの原因だと言われました。
Dr.は「何もすることはありませんね。安静にしているしかないです」とおっしゃる。
「(リハビリの機械を指さして)ああいうの、やってもらえないんですか?」
「かえってだめになります。安静にするだけです」

その瞬間、我が家には年越しもお正月もないことが判明しました。
ああ、なんと情けない。
12月25日といえば、一家の主婦としてはさあ、これから一年の総決算、大掃除にお正月準備、おせちづくり、と普段手のまわらない家事を一気に行う、最も忙しい時期であります。
教師も走るという、日本中がせわしなく動くその時期に、私はマグロの水揚げのごとく、ただ横たわっているしかなかったのです…

皇太子妃雅子さまは静養のためご公務をずっと休まれていますが、我が家のさとみさまもお正月の公務ならぬ恒例行事をすべて欠席することになりました。
元旦は結婚以来欠かさず行っている、亡き舅の墓参。(昨年からは私の母の墓参も加わりました)2日は実家の親戚が一堂に会します。私は母のかわりにホステス役を務めねばならないというのに。
「もう仕方ないわ」
寝込んで1週間、その頃にはあきらめもつき、家族が出ていった後、一人静かに本を読み、CDを聴いたのでした。

25日から慌てて作ろうと思っていた年賀状もついに出せずじまいでした。
いただいた皆様、申し訳ありません。この場を借りてお詫び申し上げます。
また、さつきが丘フィールズ関係者の方々にはお見舞いや激励のお言葉をいただき、いろいろとお世話になり、本当に感謝しております。
現在、痛みはまだありますが、このように少し文章が書けるほど回復しました。
ただ、歩き方はよぼよぼと、90才の老人より遅い足取りですし、長時間座ることも立つこともまだできません。
ある程度痛みがひいてくると、少しは運動をしたほうがいいという説もあり、今後どのようにしたら回復につながるのかと、悩んでいるところです。
腰痛克服にまつわる、皆様の情報をお寄せいただければ幸いです。

そして最後になりましたが・・・・・・
このブログには、私が存じ上げない、多くの方々が連日訪れてくださっているようです。私は、さつきが丘関係者のほかにこの存在を誰にも教えていないので、過去の記事を読んでくださった方々や、仲間のブログから訪れてくださった方々と拝察いたします。
インターネットとはそういう世界なのでしょうが、このような拙文を見知らぬ方に見ていただくのは、気恥ずかしいのと同時に、大変な励みともなります。
仮にも、モノ書きの最末端で仕事をしている者なので、文章を書くことは好きなのです。
全く更新できてなかったにもかかわらず、ご訪問してくださったことに感謝申し上げます。
そして今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
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by gbsatomi | 2005-01-17 22:22 | DIARY

「愛」についてちょっと考えてみた

なぜにいきなり「愛」?…
…数日来ジョンの世界に浸っているから?いえ、そういうわけではありません。

今日、ある女性を取材した。彼女は、私に「ストーリーテリング」というものをやってくれた。イギリスの児童文学作家、ファージョン作の「ボタンインコ」というお話。あるジプシーの少女をめぐるファンタスティックな話だった。その邦題「ボタンインコ」は、原題は「Love Bird」というらしい。あえて邦題を使う理由として、彼女は「Love」って言葉は、日本ではえてして「性愛」の意味あいで使われるから。英語では、「Love」はもっと普遍的なものだから、と言った。

そうかあ…そうだよね。英語圏の人々ってすぐにLoveを連発するよね。あれってLoveの安売りじゃなくって、もしかしたら、日本人が使うLoveよりもっと崇高なものかもしれない。キリスト教では「汝の隣人を愛しなさい」とかいうらしい。日本語的感覚だと、「人を愛する」って言ったら、やっぱり、その…「恋愛」を思い浮かべるでしょう。すると、その範囲は自ずから限られてくる。若い人にしか関係ないもの、既婚者には関係ないもの……
だから、若者の間では、男女が相思相愛なことを「ラブラブ」(もう古いかな?)なんて言うんでしょ。こっちのほうが、よっぽど「Love」の安売りなんじゃないかしら。。。

そんなことをボーっと考えながら帰ってきて、新聞をパラパラとめくっていると、「読者の悩み相談室」みたいなコーナーがあって、回答者はあのピーコ。
46才で夫も子どももいる主婦が、5年間妻子ある人とつきあっていて、彼のほうはもともと夫婦不仲で、最近離婚したという。ところが、彼は彼女(相談者)に、別れを告げた。独り身になったというのに。相談者は「私は彼を大好き。こんな恋はもう一生できない。夫も子どももいる幸せな家庭にいて、恋をしてはいけないのでしょうか。去っていく彼を追うのは無駄なことですか?」という内容。
まあ。お気楽な人もいるものだな、もしかしたら「サクラ」記事かもしれないけど…と思いながらピーコの回答を読んだら
「あなたの恋は5年間、無駄だったのよ」。
いわく、「恋は欲望。愛は、どれだけ相手に何かをしてあげられるか」ということらしい。

うん…ピーコの考えがすべて正しいわけではないでしょうけど、彼(彼女?)の言う「愛」は、Love本来の意味に近いかもね、なんて、今日の取材を思い出しながら考えた。

さらに新聞の別刷りを見ると、サンテグジュぺリの「星の王子様」の記事があり、
いくつかの日本語訳があった。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
「いま、こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ、一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ……」

肝心なことは目に見えない、か……もしかしたら、既に経験しているのかもしれない。
私の好きなジョンの曲「Oh My Love」には♪My eyes are wide open という一節がある。
そしてジョンの名曲「Love」は、邦訳の必要がないほどシンプルな歌詞だ。

Love is real,
Real is love
Love is feeling,
Feeling love
Love is wanting
To be loved.

Love is touch,
Touch is love
Love is reaching,
Reaching love
Love is asking
To be loved.

Love is you
You and me
Love is knowing
We can be

Love is free,
Free is love
Love is living,
Living love
Love is needing
To be loved.

今日、取材した彼女が「どんな子どもでも、愛されたい、認められたいと思っている」と言った。
〝大人だってそうだよね〟と私は心の中でつぶやいた。
例えどんな人でも――みんなに相手にされない人、批難される人、逆に富も名声も得てこれ以上幸せな人はない、と思われるような人でも――みんな昔は子どもだったしね。

「愛」ってなんだろう?
もう、照れずにそんなことを真面目に考えてもいいような年齢だと思った、今日の出来事でした。
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by gbsatomi | 2004-12-12 00:25 | DIARY


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